古来より静原は鞍馬街道と敦賀街道を東西で結ぶ要衝の地であった。この城は静原の集落を北側から抱くように構築されており、山本対馬守(資幹)が明応年間(1492~1501)に築城、もしくは弘治2年(1557)に三好長慶が山城54郷に夫役を課して築城し、士豪山本氏が守備を担っていたとも言われている。

織田信長の伝記とされる『信長公記』には元亀4年(1573)に信長によって命ぜられた明智光秀によって落城したとある。尚この戦火により静原に伝わる多くの社記や書物の多くが焼失してしまった。